2016年2月13日土曜日

夏草や、日系人が夢のあと・・・

半世紀以上を経て、よみがえるか地獄谷!!
ー今後の動きが待たれます-


(ハワイ最新ニュース)2015年2月オバマ大統領が、西オアフのクニアにある地域を国定史跡にすると発表したことが直接の契機ですが、その前に人気テレビドラマ「ハワイ・ファイブ・オー」で、それと同じようなセットをワヒアワ地区に再現したこと、またNHKのニュースで大きく取り上げられたこともあり、ここ「ホノウリウリ(Honouliuli)日系人収容所跡」に世の関心が集まりました。

今回は、ハワイ・シニアライフ協会が日本文化センター(JCCH)協力のもと、同跡地を訪ねるツアーを企画し、そこを体験取材したことをレポート!

朝7時半アラモアナホテルに32名ほど集合、ミニバス2台に分かれて出発。
    
  写真左:アラモアナの集合   写真右:社内では写真で説明

社内では、真珠湾攻撃直後、強制収容に至る日系人の歴史がパネル付きの写真とJCCHスタッフの日英両語ガイドで、詳しい説明がなされながら、あっという間にクニア地区内へ。

ジェームスキャンベル会社所有で、パイナップルやサトウキビの畑だった場所に、その強制収容所が作られましたが、ここは2007年バイオ化学メーカーの「モンサント」に売却され、その後、史跡保存のために同会社がアメリカ政府に150エーカーを寄付したのが今回の史跡パークです。

収容所跡はトイレの設備がないので、モンサント社の事務所に寄らせていただき、同社の方からのご挨拶も受けました。


 
ホノウリウリ(ハワイ語で暗い湾)は、川が海に流れる渓谷で「アフプアア」と呼ばれる古代ハワイアンの自給自足の共同生活区域だった所ですが、日系人が収容されたのは谷合の草ぼうぼうで、湿った、蒸し暑い、しかも蚊が大量にいる所で、収容された人々は余りのひどさに、ここを「地獄谷 Hell Valley」と呼んだのでした。
 

このホノウリウリは全米で残存している収容所の中でも、状態がいい方だということでしたが、我々が見た「Mess Hall 」(メスホール Messとはフランス語で食べ物を取り出す所)と呼ばれたダイニングルームは、コンクリートの床跡のみ残っていました。


集会場として、月に一度ある面会所として使われていた場所でしたが、終戦後すべてが壊され、70年たった今では、雑草がコンクリートを突き破り荒廃な場所に変わり、当時の面影はなにも残っていません。

ボランティアの方の話では、日系人はお茶漬けや漬物が懐かしく、この裏に大根などの野菜を植えて、欲求を満たしていたということですが、70年たったのち、奇しくもボランティアがそこに大根が育っているのを見つけ持ち帰り漬物にして、皆で食べながら当時を思うよすがとしたとか。70年後に大根が見つかるなんて何の因縁でしょうか・・・大根役者であっても、昔を思い出させるという立派な役を果たしてくれました。


当時、布でできた米袋でエプロンを作り、このひどい谷合の「地獄谷」の名前をいれたということで、そのレプリカ・エプロンも作られ、収容所の苦しい生活について、短歌を作り、みんなで歌って頑張ったそうです。


特に皆が好んだ愛唱歌は「夕焼け小焼け」、我々もメスホールで合唱しているうちに胸がジ~ンとなってしまいました。




政府はここを極秘場所としたため、家族が面会する時はバスにのり目隠しをして連れてこられたので場所が特定できず、また収容された人は苦しい思い出を家族に話すことも殆どなく来たので、それが輪をかけて場所をわからなくしたこと、また1946年に閉鎖された際政府は忌まわしい過去をほおむりさるかのように、すべての建物を壊し更地にしたということなどから、場所の特定に時間がかかったのでした。


1998年ホノルルのテレビ局KHONが「シンドラー」の映画を上映するにあたり、ホノウリウリ日系人収容所についてJCCに問い合わせた時には、資料が何もなかったのですが、場所の目印になったのが、「ワイホレ・ディッチ」と呼ばれるこの黒い石壁でした。


  
   写真左:目印の黒い石壁    写真右:歯ブラシでできた指輪

これは1912-15年日系移民が中心になり、40キロ離れた場所から水を引いてサトウキビのための灌漑用水を引いた石壁だったのです。2002年ボランティアが、これを見つけて、場所が初めて明らかにされました。


この黒い石壁前の道路は、当時粉々になったサンゴを敷き詰めていたのですが、手先が器用な日系人が、何もできない日々をどうやって過ごしたか・・・
そこからでてくる貝を集めてネックレスを作ったり、あるいは歯ブラシの柄で指輪を作って家族に渡したり。


伝承や取材などを含めて、当時の模様が明らかにされる中、たとえばダン・トオル・ニシカワさんが書いた収容所の絵(写真左)や、当時の写真が大変貴重なものとして残されています。



ここは300名の日系人とともに、4000名の戦争捕虜(といっても兵隊ではなく軍に従事していた民間人が主に)も収容されていましたが、写真に写っていた用水路(指で刺している所)が今も残っていて、そこでお話しを伺ったのは特に興味深かったです。

       
   写真左:当時の写真で見る用水路     写真右:今も面影が残る用水路

これからの発掘で、もっと詳しいことが分かってくると思いますが、70年の月日はジャングル化が激しく、昔小屋があった場所あたりには大きなバニヤンツリーが茂っていたし、どこもかしこも草ぼうぼうで、ボランティアやスタッフの涙ぐましい努力がしのばれます。 


  
 写真左:バニヤンツリーでジャングル化    写真右:メスホール跡地での歌と踊り


丁度ナショナルパークのスタッフがいたので、聞いたところ、ここのパークスタッフは現在2名配属され、近くのパークから20名余り、そしてボランティアが手伝ってくれるので、なんとかやれるということでした。
、 
コアロハのアルヴィン・オカミさんが作ったホノウリウリの歌とJCCHの方がMess Hall
跡で踊るフラやウクレレが、楽園天国と言われるハワイの、この場所で行われた悲惨な出来事を、70年という時とともに穏やかに包んでくれました。

この場所は1941年から46年まであったわけですが、「しかたがない」「我慢」「恩」「責任」などを心のよりどころに、人権を虐げられて暮らしても誇りを失うことのなかった日系人のすごさに改めて敬意を評したいと思います。


そして、こういうことを二度と起こさないためにも、この史跡をしっかり後世に残し伝えていくこと、そしてこの「ホノウリウリ」を皆にみてもらえる日が来ることを祈りつつ、花弁を捧げ、昼前には岐路につきました。


なお、ちぐさブログにもホノウリウリのツアーのことをかきましたので、お時間があればクリックしてみてください。

姫庵より


●「知らないハワイがいっぱい 最新版」ハワイでイスラム文化が学べるシャングリラツアー、ハワイのショーがどこがベストか、海へと続くインフィニティープールなど、「最新版」では新しい情報をたくさん追加しました。これ1冊あれば、知らないハワイを楽しく遊べる!


0 件のコメント:

コメントを投稿